AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

仮想の力

ワクチン会場で予診をしていると、せまく仕切られた予診ブースの壁の向こう側からさまざまな声が漏れ聞こえてくる。白い壁というか丈夫な板は仮設されたものなのでだいたい薄く立て付けはそれほど良くない。強く押したりもたれかかったりしたら簡単に倒れてしまう。接種開始直前まで、受付のおばちゃんやら手持ち無沙汰な年配の看護師やらが猛烈な勢いで喋り始める。誰かが大きい声を出すとそれを上回る声量で他の誰かが声を出すので、会場全体のボルテージは徐々に上昇していく。ミュージシャンの登場を待つライブ会場みたいに。僕の声はこういう騒がしいところではあまり通らない。自分でもそのことが嫌になるほどだ。居酒屋とかガヤガヤした雰囲気が苦手だ。静かにイヤホンを耳に差し込んで開場の時刻まで嵐が過ぎるのをじっと待つ。 ふと、壁の向こう側からアニメの声優さんみたいな透き通った女性の声が聞こえてくる。話の内容から、接種ブースに控えている看護師のようだ。声の主を僕はひたすら想像する。白衣を着たフィギュアみたいな造形の美少女を思い浮かべる。美少女は語りかける。今日も頑張りましょうねと。午前の仕事が終わったらお昼休憩にちょっとだけ覗いて挨拶してみようと僕は決心する。それだけを楽しみに午前を生きてみる。 午前のラッシュの山場を越えて、会場から接種者がひとりずつ姿を消す。最後の接種者がいなくなると運営からお昼休憩のアナウンスが入る。まもなく5、6人のおばちゃんの声に混ざって、あのお目当ての萌え声が壁の向こうから聞こえはじめる。僕はゴクリと唾を呑み込んで軽く首を出して覗いてみる。女湯を覗くみたいに。目線で必死の声の主を探す。しかし、僕の目の前にいたのは5、6人のおばちゃんだけだった。美少女の姿はなく、その代わりに楽しそうに談笑に耽る母親世代の看護師らが愛想よく僕に向かって軽く会釈をした。僕も軽く会釈をした。どうも、いつもお世話になっていますと口ごもりながら。声の主もおばさんだったのだ。僕を励ましてくれたあの美少女は仮想でしかなかったようだ。仮想はときに現実を超えて大きな力を発揮するようだ。きっと鶴の恩返しもこんな感じだったのだろうと思った。ちなみに、今日は壁の向こうに山下達郎がいる。珍しく男性の声がする。すこしだけ気になっている。

 

 

ao-hayao.hateblo.jp

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