AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

白衣を着ない理由

僕は医者として患者の前に出るときいつも白衣を着ない。このことでこのあいだワクチン会場の運営スタッフから注意された。医者なんだからちゃんと着てくださいと。医学部時代のポリクリ(病棟実習)のときはオーベン(上級医)の目もあったしそこは大学病院という魔界だったので正装として無難に白衣に袖を通していたが、研修医のころから現在に至るまで基本的に着ない主義を貫いている。その代わりスクラブで過ごすことが多い。なぜ? と面と向かってその理由を尋ねられることはなかった。周りもそういうひとばかりだったから。いちいち着るのが煩わしいし、体を動かすとよく汗をかく体質なので数日も同じ白衣を着ていたら不衛生だと思えた。それに、ありきたりだが、医者の権威主義の象徴みたいであまり好きになれなかった。あくまで患者と同じ高さから考えてみたかった。ただもうすこし立ち止まってじっと考えてみると、ずっと忘れていたある深い理由に思い至った。 ポリクリの一環で関連病院の精神科単科病院に1ヶ月ものあいだ行ったとき、僕は自殺企図した未成年の男性患者を受け持った。薬剤の処方など医療行為のできない学生の僕はただ中庭のベンチでその患者と肩を並べて話すことしかできなかった。そんなとき、彼が自殺しようとした理由になんとなく話題が及び、親に支配されてきたいままでの人生を省みて彼は深い溜め息をついた。とりわけヒステリックで教育バカな母親への恨みつらみを吐き出すうちに彼は次第に僕に対して好意的な印象を抱くようになった。当時僕が着ていたクラシコの白衣の左腕に縫い付けられた大学の校章のワッペンをまじまじと見詰めながら、カッコイイです、と羨ましそうに言った。そして、自分も先生の大学に合格して医者になると決意を明らかにした(落ちぶれた今となってはなんの自慢にならないが、いちおう補足すると僕の母校は偏差値が最も高い医学部のひとつ)。彼は真面目な性格だったし学内でも成績は優秀だったが、医学部合格は準備期間も少なく明らかに無謀なチャレンジに思えた。もし受験に失敗したら今度こそ彼は自殺を既遂するような気がした。焚き付けたのは僕ではなく僕の着ていた白衣だったものの、そこはかとなく責任は感じていて、僕は何かものすごく余計なことをしてしまったかもしれない、と不安に襲われて自分の置かれた立場を見失った。 このことで後日僕はオーベンに呼び出された。何か変なことを吹き込まなかったか? としばらく問いただされ、身に覚えのある僕は以上の経緯を述べると、苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべたオーベンから「これ(白衣)は余計だったな」と軽く口頭で注意を受けた。あの光景はいまだによく覚えている。当時の僕は愛校心はそれなりにあったし、いまさら白衣を無地に変えること自体の影響も加味した上で、僕は残りの期間ずっと同じ白衣を着通した。僕も何故だかムキになっていた。根負けしたオーベンが「やれやれ」と呆れた表情を浮かべていたのを微かに覚えている。 そのあと大学を卒業して医者になった僕は自治医大系の地方の市中病院で研修医となった。もう母校の傘下ではないので当然ながら例の白衣を脱いだ。というか、卒業を機に白衣そのものから遠ざかった。なにか明確な理由が頭にあったわけではないが、彼の羨望の眼差しにどこかで耐えられなくなったのかもしれない。

 

▽おすすめのスクラブ。生地が丈夫なのと、何回も洗ううちに色褪せてとてもいい味が出てくる。何色か持っていて、それを着回している。アメリカのサイズ感なので、ひとまわり小さめを買うと日本人の体にはちょうどいい。

 

 

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