AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

配信をやめた理由

27日に配信をやめた。休止と言ったけど無期限なので、現状ではやめたのと同じこと。ちなみにツイッターもやめた。二つアカウントがあったが両方とも。記念に残しておく。死ぬ前に、お礼参りできるように。 ちょうどその日の朝、ワクチン会場の近くで弟と軽く散歩した。誰も自分の話を聞いてくれないと彼は言った。たしかに彼は定職にも就いてないし、もう大学生でもないし、民間の医療保険も入れない。誰もそんなひとに耳を貸そうとは思わない。彼になんと声をかけてあげればいいやら。 かくいう僕も似たようなものだった。医者は医者だけど取るに足らない医者だ。配信したって注目されない。大してひとは僕の話を聞きにやってこようとしない。ひとびとはチカチカして、刺激的な、目新しいものに次々に飛びついていく。おそらくよだれを垂らしながら。紅葉を映しながら代わり映えのない日常を話しても勝ち目はない。 そんなひとたちのリアクションに一喜一憂してもしょうがないし、もっと自分を大切にしようと思った。 弟にはこう言った。誰かに評価されることよりも自分の興味のあることをもっと追求したらいいんじゃないかと。何が幸せかは自分で決めるのだ。他人がどれほどそれを欲しがっているかなんて関係ない。これは自分自身にも言っている。というか自分にそう言い聞かせている。他人がどう思うとか、自分が生きていくこととどういう関わりがあるというのだろう? 僕の幸せはなにかとこの数日のあいだ自問自答した。答えはすぐ出た。サウナして筋トレして汗を流して、ネットフリックスを見たり本を読んだり音楽を聞いたりして休息し、そして本を書くということ。自分を表現すること。以上。あ、あといい女とセックスすること。これで本当に以上。何度も考えてみたけど、過疎った配信を維持していくことは幸せの定義には入らなかった。かつて情熱を注いでいたけど、最近そうでもなかった。必要とされていないことは数年前からよくわかっていた。なかなか認められなかったが、年度も終わることだし、配信者としての僕も静かに終わろうと思う。これからは文章で。それでは。

 

追記

エッセイは地道に書いている。4月1日には間に合わない。なんとか4月中の公開を目指している。

売り方はもう決まっている。noteというサイトに有料記事で。値段はまだ決めていない。安くしようとは思っていない。

 

本のタイトルの理由

昨日18時ごろに本を書き終わった。今日から2週間くらいかけてしっかりと寝かせて、手直しして、誤字脱字がないことを確認して、来月に販売したい。文章には熟成期間が必要だ、みたいなことを『思考の整理学』で外山滋比古が言っていたが、これは建前だ。思いのほか体力とか生命力とかいろいろと奪われたので、まずは本から距離を置いて休息したいというのが本音だ。 前回の記事でご紹介したがふざけたタイトルだろう(ブログ記事を削除されたくないのでここではタイトルを書かない)。 もともと小此木啓吾先生の『自己愛人間』みたいな本を書きたかった。でも精神科医として三流の自分には書けそうもなかった。専門医もまともにとれるかわからない。精神科にたいするモチベーションも低い。そんな中で〇〇人間というタイトルで何か書くとしたら、自分らしく、あれしかないなと思った。名前は派手だが中身は地味だ。文章の世界では、プロでもない技術にない書き手が文章でふざけると面白くないというよりそもそも伝わらないという致命的な問題が起こる。途中で読むのをやめられてしまう。第一作目は慎重に行きたかったので、ちょっとまじめに書きすぎてしまった。 かなり大きな手直しが必要になると思うのでまだ断定できないが、あの本はすこし文章が固い。気軽に読むものではないかもしれない。文庫本というより上製本(ハードカバー)のほうが本の内容とマッチしているような気がする。でも上製本で見積もりすると、配送料を除いて一冊1万3000円してしまう。事前のアンケートでも希望買値の最高額は4000円程度だったので、文庫本にする。文庫本だと配送料込みで750-800円に収まる。原価がこのくらいなので、とりあえず原価のまま売ろうと思う。それでも普通のベストセラー作家に比べてかなり高めだ。出版の世界では無名の作家のほうが値段が高いという矛盾がある。バカげている。だから才能のあるひとたちは誰も本を書かないのだろう。 熟成させているあいだ、今日から2冊目の作成に入ろうと思う。もう次回作の構想は大まかにできている。二作目はもっと肩の力を抜いて書けたらいいが。

BAN

ツイキャスがBANになる夢をみた。とてもリアルだったので焦った。とはいえBANになるという現実的な危機が去ったわけではない。陰部を露出して永久Banになり本垢は未だにアカウントロックされている。2年前からIPアドレス、端末、アカウント全てに渡って使用不可となっている。都内に引っ越して新しいpc で全く新しいアカウントを作成してようやく使用できた。運営の目をかいくぐっているだけで、またいつバレるかわからない。バレたら即BANだろう。 念のため金品の授受はツイキャスでは一切やめておく。没収される恐怖に怯えながらそこに資産を置いておくことはできない。 ツイキャスオンラインストアなどで書籍のデジタルデータを販売しようかとか、一元化しようかとかいろいろ思案していたが、夢を見て、絶対にやめようと思った。 本は6割くらい完成した。折り返し地点はもう過ぎた。紙で欲しいひと、電子データだけ欲しいひと、そのいずれにも対応できるようにしたい。売らないでブログみたいに無償で配布して、というのも少し考えたが、読者側にリスクがないのは納得できなかったので、少しくらい痛みを分かち合ってくれるひとに届けたかったので売ることにした。価格は、まだ全部書き終えて校正を済ませてからでないとなんとも言えない。枚数によるが、紙は800円前後、電子版は1000円にしようと思う。電子版はnoteでの販売を考えている。オンラインストアとかいろいろ見たけど、結局これが一番楽なやり方だった。すでに有料マガジン「僕は僕なんだから」をご購入の方は、追加料金なしでそのまま電子版のほうをマガジン内で読めることとする。最初のエッセイは頓挫してしまったのでせめてものお詫びの印に。

 

▽仮のタイトル。デザインからおっ○いを外そうか悩んでいる。もう少し他のことを悩んだほうがいい。

 

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ツイキャスに移転した理由

去年の9月ごろからふわっちのフォロワー数に伸び悩んでいた。7月くらいからの1ヶ月で500名くらい増えた。当然1000人は一瞬で超えるだろうし、いったいどこまで大きくなるのだろうと期待した。放送に盛り上がっているように見えたし、定着しているように見えたし、手応えも悪くなかった。50-100名で安定してきた。しかし伸び悩んだ。日を追うごとにひとりまた一人と姿を消した。まるで神隠しみたいに。そこだけが解せなかった。荒らしがきて殺伐とし出したのは、タイミングとしてはそれよりもあとだったので、荒らしのほかに根本的な理由があるんじゃないかと不安だった。年明けると夜の11時台で視聴者が2名と1名を行き来するような始末で、なんだかバカにされているような気がした。プライドが高いとかではなく、この急激な減り方は人為的ではないか? と。ニコ生のときはそもそもひとがいなかったから急ブレーキがかかったわけでもなかった。 おかしいなと気づいたのは初見が来なくなったこと。もしかして…と思ってサムネも刷新してみたがやはり来場者層に変化はない。初見はやってこない。自分のスマホで確認してようやく確信した。運営によっておそらくおすすめ規制を受けている。上位に浮上しないとかではなく、そもそも一覧に載っていない。リスナーからの拍手(NICE)が減っただけだとしても一覧には残るはずである。もちろん大手も入るはずだし、そこは平等なはず。にもかかわらずだ。 なぜおすすめ規制を受けていたのだろう。運営から告知はなかったので理由はわからない。同様のケースがないか検索してみると、アンダーバー(伏字)コメントが多い放送や性的な表現が含まれる放送が規制されることがあるらしい。そんなことは利用規約のどこにも記載されていないが。ふわっちにたいする不信感は強い。いままでの時間を返して欲しいと思っている。泥棒と同じだ。 新規ファンの流入口が閉鎖されていた。これは間違いなく死活問題だ。泉が枯れていた。コミュニティの存続に関わる。このコミュニティからひとがいなくなるのは時間の問題だった。古株のリスナーに愛されているにはもちろんありがたいが、僕は二人だけの愛を求めているわけではない(詳しくは4月に販売する本を読んでほしい)。 数が減るとやりづらくなる。ツイキャスはとある理由で永久Banになったはずだったが、何気なくアカウントを作り直したらログインできた。いつバレるかわからないが、とりあえず別人として再スタートを切った。まだひとは少ないけど、ふわっちよりはマシだと思っている。時間をかけてツイキャスに完全移行したい。

罵倒した理由

ベランダがハトのフンで汚染されていた。入居して長いことベランダの様子を見ていなかったせいもあるが、足の踏み場もないほどフンが乱れ落ちていた。室外機にも悪い影響がありそうだった。冬場になって体調が崩れがちだったのはこのせいではないかと思われた。とりあえず洗浄が終わるまでエアコンは止めて、床暖房か、厚着をして寒さを耐えしのぐことにした。それでも底冷えして予定より1時間も早く目が覚めた。まだ外は暗かった。部屋は静かに冷えていた。寒かった。寝汗のせいだろうか。 目覚めの間際に見た夢の内容をいまも克明に思い出せる。あまりいい夢ではなかった。僕が教習所の教官になって助手席に座り、汗ばんだ手でハンドルを握り締める弟に横槍を入れるというもの。叱責というか、ひどい言葉で罵倒するというものだった。弟はクリープ現象を知らなかった。ブレーキを踏まないと車体がわずかに前進してしまうことさえろくに理解できておらず、何度注意しても車体は停止線をわずかに超えた。見ていて鈍くさかった。僕が代わりに運転したほうが楽だと。「そんなことじゃ、人殺すから、やめな、免許とるの」と捨て台詞を吐いた。車内で横並びの位置に二人は座っていたから、弟の表情は見ていなかった。そこで目が覚めた。いったいどういう表情をしていたのだろう。 あまり気持ちのいい夢ではなかった。意識の上で、僕は弟を応援しているつもりでいた。うつ状態が長引いて、去年の夏場、弟は大学を退学することになった。そのあと僕主導で通院先の精神科クリニックを変えた。処方も大幅に変更され、調整はいまも続いている。この先、彼の人生にも必ずいいことがあると信じていた。だから、まさか「愚鈍だ」とか「俺のほうがもっとうまくできるのに」「やめてしまえ」などと、夢の中とはいえ、弟に向かって僕が言い放つなんて思いもよらなかった。罪悪感でしばらく寝込んだ。数秒前まで寝ていたわけだが。

WHY

ニュースを見ようとしなくても、スマホにはロシアとウクライナの情勢を伝える報道に溢れている。戦争そのものの映像はなく、避難する住民の悲壮な姿と、今後のシナリオを予想する専門家の平板な解説が流れる。平和が軍事力の絶妙な均衡の上に成り立っていることをまざまざと見せつけられた。メンタリストはプーチンの側の加害者の被害者意識を取り上げている。それぞれの立場から戦争というものの悲惨さを噛み砕いているようだ。でも、僕にはそもそもプーチンの演説自体がディープフェイクの映像のように見えてしまい、なかなか感情的に入ってこない。こういうピリピリした時期に失言だけはしないように気をつけようと気を引き締める程度で、知識としては次は日本の北方領土が狙われることも分かりつつ、やはり実感が湧かない。 もっと言えばずっと身近に起きていることも遠い国の戦争のように他人事に思えて生きている実感が湧かない。 書くというのは、こうした実感を取り戻すことが必要になったからだろう。散文的に書くんじゃなくて、あるテーマに沿って、真相の解明に向けて、書きながら考えること。思想を持つこと。それが今一番僕に必要なことかもしれない。内容は詳しく言えない。下書きというかプロットはだいたい作成し終えたが、いざ書いてみたら全然違うものになった、なんていうこともあるかもしれない。僕にも自分が何を考えているのかわからない。 少なくとも僕に心に埋まっている地雷の在り処をちゃんと示すことはしたい。具体的には、なぜパパ活を始めたのか、というところは書いてみたい。パパ活が僕にとってどのようなものかはすでにブログでも素描している。詳しくは神輿モデルを読んでほしい。もちろんそれについての本の中でちゃんと書こうと思う。しかし、なぜパパ活を始めたのか、という問いにはまだ何も答えてない。HOWではなくWHYに答えたい。このブログにタイトルにもあるように、その理由についてみんな知りたがっているのだ。僕もそうだ。今回書く本の主題はまさにこの辺りにある。

詰め込む理由

だんだん体調が崩れる前の生活に戻ってきた。いい意味でも悪い意味でも。いい意味としては、体力や気力が戻ってきた。ワクチンの予診業務は基本的に座って話すだけの静的な仕事だ。楽な商売と思われがちだが、単調なだけにこれが10時間、週6日間も続くとなると話は変わってくる。想像以上に激しく体力を消耗する。家に帰ってきたら、もう何もしたくなくなる。筋肉が硬直し、節々のあちこちが軋むように悲鳴を上げる。体力が戻ってきたということは、この苦行みたいな生活にもそれなりに順応できるようになったということ。帰宅後の時間を、休養以外の別のものごとに充てることができるようになったことを意味する具体的には、配信や執筆、そして言うまでもなくパパ活だ。先日、配信でも申し上げたように、パパ活を再開した。性依存症ではないのでなくても何かが欠乏することはないが、しかし配信だけでは自己愛の供給が間に合わない。毎日チヤホヤされた配信が続けば文句はないが、なんだかいまいちパッとしない配信が続く。コメントについての批評を始めるとさらに過疎化に拍車がかかると始末で、収支は若干赤字な気がしている。女性と会うこと、あるいは肌を重ねることのメリットは自信を取り戻せることだ。女性はお金と快楽を得る。そして僕はひととしての基本的な自己肯定感を涵養する。これには時間がかかる。ある程度、数をこなさないと健全な自己肯定感なんて育たない。 それにしても日程を過密に組みすぎてしまった。ワクチンの仕事と同様に、パパ活も来月まで1日も空きがない。連日別に女性と会う。流石にちょっとやりすぎたかな、と小さく後悔した。ただ、せっかく苦労して約束を取り付けた女性を、忙しいから後回しにすることでみすみす逃したくはなかった。前もどこかで述べたが、一人の女性と出会うには大変だ。ただ会うだけなお金さえ払えば容易い。しかし、真っ当な人と出会うには、100人にアタックし、そのうちの10人とやり取りし、1人に絞り込んでようやく約束の運び、といったところ。それくらいまともじゃない女性がとても多い(下手な女性と出会うと暴力団関係者、詐欺、盗難被害、メンヘラの警察通報などややこしい事件に巻き込まれて社会的信用を失うことにもなりかねない)。パパ活をズルをしているように羨望的に非難する輩もいるが、実際にやってみるといい。三か月も絶対に続かないから。 なぜこんなに詰め込んでしまうのだろう。このせいで体調が崩れて、病気がちになるには目に見えているのに。そんなことはわかっていても、自動的にこういう生活に戻ってしまうようだ。