AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

本を書こう

ワクチンの仕事のお昼休みに公園でベンチに腰掛けていたら、胸の内側から温かな気持ちが湧いてきた。いったん断念した執筆作業を、もう一度仕切り直して書いてみようと。自然とそういう気持ちになった。今朝、予定より早く駅に着いてしまって、近くのジムで軽く汗を流したのがよかったのかもしれない。清々しく心地よい気分だ。 なるべく文量を減らして、簡単にエッセイを書いてみたくなった。具体的にはまだ未定だが、なるべく紙の本だと形としていつまでも残るからいいなと思っている。ブログとの棲み分けはあまり意識していない。もちろん同じひとが書くわけだから本とブログと内容が重なるのは避けられない。それでもネットに散らばったアイデアや文章の断片、あるいは配信でたまたま口走ったものごとをちゃんと一箇所に掻き集めて、きちんと繋ぎ合わせて、ひとつの形に残すことにもそれなりに意味があるだろう。そう信じている。いちおう値札はつけるけど、商売目的ではない。そもそもそういう意識でネット活動したことが一度もない。何年後か振り返った時に、ああ、こんなしょうもないことを考えていたんだな、と個人的に振り返られればそれでいい。赤の他人が読んだら別に面白くも何ともない卒業アルバムみたいに、あくまで自分にとって特別な何かにしたい。読者の存在はあまり気にしないから期待しないでほしい。その程度のものとして気楽に書き始めたい。公園を満たす陽気の感触を忘れないうちに。

整う理由

このごろ睡眠時間はかなり余裕を持って確保できていた。しかし、目覚めがあまりよくなかった。たくさん寝ればいいというわけじゃない。朝起きたときに首周りの微かな疲労の跡があった。まるで何かの邪気を払うみたいにシャワーを当てて後頸部を重点的に流してみるが、効果はほとんどなかった。肝心なのは睡眠の質のほうで、思い立って夜間にフィットネスジムに向かった。無酸素運動を中心に1時間程度の筋トレを試してみたところ、翌朝、今度はスッキリ目が覚めた。例の邪気の痕跡もなかった。やっぱりな、と思った。おそらく眠っているときも余計な力が肩に入っていたのだ。筋肉をうまく弛緩できていなかったのだろう。筋トレはそう言った余計な力を抜くための賢いテクニックだ。力を抜くには、直前に思い切り力を入れるとよい。何度も繰り返していると、本当に身体が軽く感じられる。目に見えない鎧を脱いだように。そして内側からポカポカと温かくなる。額からサラッとした清潔な汗が滴り落ちる。これを小一時間かけて入念に行う。この間、他人の視線は全く気にならない。あくまで自分との闘いであり、対話である。この孤立した空間と時間が至高だ。誰にも邪魔されなくてとても気持ちいい。よく鏡の前でポージングして色々な角度から自分の筋肉の盛りを確かめたり、それでは足りずSNSで画像をアップロードしていいねをもらうひとたちがいるが、そういうナル(自己愛的)なひとたちと僕とで筋トレに求めているものが全然違うように思う。誰かに褒めてもらいたいとか、見てほしいとか、痩せてモテたいとか、そういう承認欲求というか外的動機というものが僕にはあまりない(もちろん全くないわけではないが)。むしろ、誰の目も気にせずひとりになれるからいいとさえ思っている。僕は精神的な安定を求めている。どちらが優れているということはないが、そもそも生き方が根本的に違うんだなとつくづく思う。 サウナにも筋トレと似たような効能がある。深部体温の上げ下げを通じて交感神経と副交感神経を交互に刺激することで、肉体に張り巡らされた自律神経のバラバラな動きを、心房細動にAEDをかけるみたいに、一挙に同期させることができる。水風呂に火照った肌を軽くくぐらせて、水分を拭い去り、じっくりと外気浴を楽しむ。全身の筋肉が弛緩し、目を閉じると空中浮遊しているような錯覚に陥る。悪くない。あのポカポカした感じと心地よい風を一枚の肌の内外にそれぞれ感じることができる。いわゆる心が整うような状態が完成する。瞑想とかもきっとそういう感じなのだろう。

黙っていた理由

日曜日も精力的にワクチンの仕事に取り組んでいる。お上のお達しでワクチン接種が推進されている。でも会場の数は増えないので、シンプルに医者の労働時間が長くなった。9時ー19時半が前提になっていることが多い。これまでの9時ー17時に比べて疲労度が全然違う。だいたい1日に550名を3人の医師でさばくとなるとなかなか大変だ。100人を超えたあたりから意識が薄らいでくる。あれ、さっきもこのお婆ちゃん見たな、みたいな錯覚に陥る。同じ人たちが会場を何周もしているのだろうか。ひとは1日に100人以上と会ってはいけないのかもしれない。いずれにしても今月、来月あたりが掻き入れ時だ。収入が安定しない。見通しのたたない身分だ。多少忙しいくらいなほうが安心できる。今日の会場にはなぜだか中島みゆきが流れている。運営のスタッフの趣味だろうか。なかなか悪くない。BTSとか流行り物が鳴り響く会場に比べたら、中島みゆきのほうがしっくりくる。忍耐に訴えかけてくる。コロナや副反応に負けず頑張ろうとひとびとは奮い立つ。 ところで、しばらくブログを書かなかったのは、戦略的にそうしたというより、そうせざるを得なかったからだ。呼吸器症状がひどくて、しばらく咳止めの内服が欠かせなかった。それに伴って食欲も減退した。胃が受け付けなかった。発症3週間が過ぎてようやく戻ってきたが、まだ朝方に軽い咳がある。体の調子が狂うと精神も健全とは言い難い。目に入るもの、耳につく音など、なんだかどれも不快なものに感じられる。こういう状態のまま文章を書こうとすると、どれほど純粋な気持ちで望んでも、いくらか当初の意図が歪められた形で表現されてしまう。ちょうど配信を荒らされた時期も重なっていた。書くことがそういった不快な事象、人物に向けた復讐や嫌がらせなどの手段に成り下がってしまう。口を開けば自分でも驚くような嫌味しか出てこない。これには失望させられる。何回かトライしたが、結局途中から違うほうに話が逸れて、次第に気分が重くなって、書くのが嫌になって遂にやめた。自分を傷つけてくる誰かに向けた挑戦や反撃などどうでもいいではないか。いまは素直にそう思える。時間の無駄だとはっきりと断言できる。しかし、そのときはそうは思えなかった。呪い殺そうと本気で思っていた。それくらい心に余裕がなかったのだろう。文章的視座が完璧に失われていたのだ。そういうときは筆を置いて黙って空を見上げるしかない。それ以上余計な心配をかけたり、誰か大切なひとを無闇に傷つけたり、匿名の誰かを呪うことのないように、心に蓋をしてただ黙って嵐が通り過ぎるのを待つしかないのだ。

お腹が空く理由

昨晩あんなに胃袋がはち切れるくらい食べたのに、いやむしろその反動のせいなのか、今朝は胃袋が搾り取られるような空腹感で目覚めた。完璧な空白がこんなに重いものだとは思ってもみなかった。 とにかく大して動かないのに一日の終わりに強烈な疲れやすさを自覚している。数種類の薬を組み合わせて咳を鎮めているせいだろうか。もしくは二月に入って勤務時間が9:00-19:30と3時間延長されたからか。とにかくたかが予診とはいえと疲れ方が尋常でない。昨日はファイザーの会場だったので尚更だ。だいたい医師一人当たり100-150名の接種者を予診する計算だが、100名を超えたあたりから感覚がおかしくなってくる。あれ? さっきこのおじいちゃん予診したよな? と全員顔が同じに見えてくる。若いひとならまだしも、80歳以降の高齢者となるともはや性別さえも分からない(現在、接種者の9割が高齢者)。同じひとが会場を周回しているという壮大なドッキリなのではないかと本気で疑ってみる。精神科的にはこれは相貌失認に近い症状だが、通常、認知症にしか起こらない重篤な精神症状だ。よほど脳が疲労していたのだろう。 最後のひとりの経過観察の終了を確認し、電車を乗り継いで自宅に着くころには、僕はノックアウトされたボクサーのように無気力になる。夜を楽しもうという文化的な発想は出てこない。ただひたすら「疲れた」と何度も懲りずに呟く機械に成り下がる。頭が真っ白になって何も考えられない。自分が持っている全てを絞り出した実感がある。こんなとき、つまり理性が完全に奪われたとき、性欲は意外とない。いちおうメンテナンスとして自慰しても、快楽は予想の半分もこない。性欲を差し置いて襲いかかってくるのは睡眠欲と食欲だ。 あまりいい兆候ではないと思いつつ、最近、脂で米がギトギトになったカルビ弁当と巨大なイチゴバナナパフェをそれぞれウーバーで注文することが多い。罪深い脂が舌の上に躍り出る。口に入れた瞬間に脳がバターみたいに溶けそうになる。唾液が止まらない。動物みたいに後先考えず無心で喰らいつく。乾ききった身体の隅々まで脂が浸透していくのがわかる。あまりの快感に思わずのけぞる。なんだか後ろめたさを感じる。これが合法な社会で本当によかったとホッと胸を撫で下ろす。吐く2歩手前でやめておく。言われるまでもなく眠りに落ちる。また朝がやってくるとは知らずに。考える余地なんてどこにもない。

硬くならない理由

読書にも飽きた。来るはずもない接種希望者を待ち続けることほどつらいことはない。気分はあまりよくないし、何か頭を使わないことをやろうと思い立ち、スマホパパ活アプリを弄るかたわら、ブラウザで検索に引っかかった中イキの体験記をいくつか漁って読んでいた。書き手は男性の場合もあれば女性の場合もある。個人ブログもあれば、なんかのラブグッズの宣伝だったり、出会い系アプリの誘導サイトの場合も少なくない。ネットを見渡せば真偽不明なテクニックや奥義のようなものがたくさん出てくる。そのほとんどが出来の悪い官能小説か何かのように僕には見える。もしくは男性を興奮させるために女性が仕掛けた嘘か。僕の人生にとって間違いなく何の意味もないが、まあ、いい退屈しのぎにはなるだろう。 28のころに心因性EDを自覚するようになった(すでに何処かで述べた通り)。彼女との性生活に何らかの不自由さを感じたり、営みの最中に些細な行き違いから不満や憤りを抱き、初対面のころのように素直に喜びを共有できなくなった時期とちょうど重なる。女性に優位に立たれたり、やり方を具体的に指示されたり、という心理的なプレッシャーが本当に苦手なのだ。トラウマがあってのことだったと後に知ることになるが、彼女に(表現を自己規制するが)『指を使った前戯』を全否定されたのが僕としてはショックだった。まるで最愛の女に玄関先で拒絶されたような罰の悪さを感じた。いままでそれで痛い思いをさせたことは一度もなかった。身に覚えのない罪で締め出しを喰らったみたいに最悪な気分だった。なにか僕は彼女にいけないことをしてしまったのではないかと心配になった。思い返してもなぜ拒絶されたのか分からなかった。ひとたび罪悪感が脳裏をよぎると、それまで確実に硬かったものが急に縮小して萎えた。十分な強度を保てず、ブカブカになったゴムを持て余し、しばらく唖然とした。こっちの複雑な台所事情を知ろうともせず「早く入れて欲しい」と匂わしてくる彼女に僕は殺意を感じた。こういうときの男性の気持ちは女性には永遠に分からないだろう。これを超えるような理不尽さはこの世に存在しない。 もちろん性生活が男女の関係の全てではないが、それ以後、それまで許せていたこともなぜだか無性に許せなくなった。 破局後、パパ活でもごくまれにだがそういう恐怖心のある女性に出会う。男性のモノを挿れるのは構わないが指だけは嫌だという女性に2人ばかり出会ったことがある。いずれの女性もそれまで何回も会っていた女性だったが、ある日成り行きの中で拒絶が決定的に明らかになると、僕は全人格を侮辱されたような心持ちになり、怒りを爆発させた。無防備に横たわる女性を前に「出て行け」と僕は怒鳴り散らした。女性は慌てて服を抱えて僕の視界の外に消えた。彼女たちとはそれっきりだ。なんとも気の毒だ。僕も思い出しただけで気分が悪い。ひとの心には触ると爆発するような地雷がいくつか埋まっているものだ。こんなところに埋まっていたなんて全く予期していなかったし自分でもびっくりした。まだほとんど手付かずの状態で危険な感情が地盤に埋まっていたのだ。些細な行き違いだが、指にまつわる女性の小さな拒絶は確実に僕の硬い岩盤を破壊してしまうようだ。 あの日を境に、自分史を前編と後編に分けることができる。後編の人生を生きているいま、反動からなのか、パパ活では口や指で女性を喜ばせることに没頭している。というより固執している。モノの挿入を僕から要求することはないし、ほとんどの女性は要求してこない。僕は下着を履いている。直に見せることさえ遠慮する。指だけで失神してしまうひともいるくらいで、絶頂に到達するために女性は必ずしもモノを必要としないのだと悟った。翌日も朝から仕事があるし身体の負担が大きい、との理由で指と口(舌)だけで済ませることが大半である。薪をくべるとしばらく自律的に燃え上がるのが女性の身体の不思議なところで、いったん着火すると必ずしも僕という着火剤を必要としなくなる。ことが済んでしまうと、彼女たちの記憶から僕はキレイに抹消されるようだ。たまに寂しさはあるが、まあ、深入りしてもややこしいだけだし本番はパートナーとやって欲しいなと率直に思う。僕には心の穴まで満たしてあげることはできない。絶頂に達すると2、3日のあいだ身体の芯がポカポカした感じになるという女性もいる。ベッドからおりて立ち上がった後、しばらく足取りがおぼつかない。しばらくベッドで休んでいればいいのにフラフラしながらトイレに駆け込む。別れた後の帰り道、駅のホームから転落しなければいいが、と密かに僕は祈りを上げる。神秘的な燃焼の効果が次第に切れてくると、僕からアプローチしなくても彼女たちの方から僕に連絡を入れてくる。いろいろな意見はあると思うけれど、これはこれでいいんだと僕は納得している。

『ソクラテスの弁明』を読んで

○本の紹介

弟子のプラトンによって書かれた、師匠の哲学者・ソクラテス古代ギリシャで紀元前5世紀ごろに法廷で弁明した事実に基づいたフィクション。ソクラテスは神々を信じず風紀を乱したという理由で訴えられ、裁判員の投票によって僅差で死刑を命じられる(実際に死刑に処された)。弁明の中でソクラテスは「あなたがアテナイで一番知恵がある」という神託を受けたというエピソードを語る。しかし明らかに自分は無知であり神託の内容に納得できず、それに反駁すべく自分の無知を暴くために当時の政治家や詩人など賢者の元を訪ねて徹底的に議論を挑んだ。しかしながら、どんな相手と議論しても自分より知恵のある者は遂に現れなかった。彼らは自身が何でも知っていると信じている点で、自身は何も知らない(無知)と信じる自分より劣っているとソクラテスは考えた。その後も神託に反駁するために議論を重ね、当時のあらゆる知識人たちを次々に論破し、世間から敵意や反感を買ってしまったことで中傷が止まらなくなったとソクラテスは分析する。弁明は虚しく、死刑となった。もしあの神託が本当に正しいのだとすれば、無知な自分を自覚することこそ最も知恵があることになるとソクラテスは思い至る。 現在のSNSによる誹謗中傷や私刑に通ずる興味深い哲学書。余計なところを飛ばせばさらっと読める薄い文庫本。本の後ろ半分は解説が占めている。とくに読む必要はない。

 

○ひとこと感想

ワクチンの予診の合間にKindleでサクッと読んだので要点以外はあまり詳しく把握していない。言い回しがいちいち回りくどい。にもかかわらずずっしりと重く胸に残る一冊。ソクラテスが正直に真実を伝え、500名ほどいる裁判員に向けて最後まで命乞いをしなかったところが胸を打つ。死刑になる論理的な根拠はないが、何となく多数決によって裁かれ、時代の雰囲気にそぐわないため殺されてしまう。当時の喜劇などで愚鈍な哲学者としてソクラテスは実名でよく登場し、ひとびとの嘲笑の対象となっていたようだ。しかし法廷の弁明で明らかになるように、その場に居合わせたほとんどのひとは実際のソクラテスが議論しているところを一度も見たことがない。大して確認せず悪い噂をすぐ鵜呑みにしてしまう大衆の心理を克明に描いた傑作だった。いつの時代になっても人間の心はそんなに変わらない。コロナ禍のいま、正しさとはなにか、考え直してみたい。ワクチン陰謀論とはなんなのだろう。そういう不安に晒されつつ、それでも勇気を持ってワクチンを打つ決心をした高齢者に、僕は医者としてなんと声をかけるべきだろう。なぜだかとても励まされた。

冷たい理由

地方に行けば行くほど冬場の便座は冷たい。もはや痛い。ちょっとした滝行くらい忍耐を強いられる。一切の妥協を許さない。もちろんウォシュレットなんて付随してない。ただのシンプルなトイレの形をした陶器だ。必要最低限の機能しか備えていない。流す。ときどき詰まる。以上。 今日の会場は不運なことに冷暖房もついていない。いまどきの日本で珍しい。予診ブースには据え置きタイプのヒーターがそれぞれ配備されている。これからケバブでも焼くのか? というくらい電熱線は橙色の強い光線を放つ。おかげさまで右半身だけがこんがりと焼けそうだ。今日の会場は昨日と違うが、モデルナしかない会場だからほとんど来場者はいない。僕はファーストの医師を任された。昨日も、その前もファーストだった。だいたい医師は平均的な規模のひとつの会場に2-3人いるものだが、「ファースト」と呼ばれるひとりの医師が基本的に経過観察中の急変時の対応をしたり、その日の最後の接種者が終了するまで居残る。ファーストかどうかその日にならないとわからない。残りの医師は定刻より2時間くらい早めに上がることができる。でも彼らと僕とで給料は同じ。これはこの世界の七不思議のひとつだ。決して問うてはならない不文律。若手医師が損するのを前提とした立派なシステム。どういうことだろうといつも腹が立つ。若手医師はいつの時代も少数派から永遠に変わらないルール。まあいいけど。