AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

顔出ししない理由

 僕が11年間ものあいだインターネットの配信で顔出ししない理由はひとつではないが、最初に思いつくのは、僕個人を特定されないためだ。言うまでもなく顔は個人を特定するための最重要証拠なのである。配信では肉親にも話せないようなプライベートなことを垂れ流している。もちろん自分の患者にもだ。そんな秘密がどこかに漏れたら医者として、息子として、兄貴として生きていくことにいくらか支障をきたすだろうし、もしかしたら信頼を失いかねない。そこに僕の弱みを見抜いたつもりなのかわからないけれど、ネットには明確な悪意をもった一部のひとが僕個人を特定しようと躍起になっている。10年以上にもおよぶ僕のインターネットの旅は、見ず知らずの誰かとの秘密の共有という当初の目的地から、僕の正体を暴こうとする勢力との闘争へとその進路を微妙に変えてしまっていることは否めない。この間も本当にしつこいやつに執拗につきまとわれた。そして何度も辞めようと思った。これは商売ではない。もちろん趣味でも続かないのだから辞めたいときにやめればいい。やめないでいると経験しなくてもいいような余計な心的負担を強いられる(インターネット配信における匿名の個人攻撃、荒らし行為については別の機会に述べる)。それでもなお配信を潰さずにやってこれたのは、単に楽しかったからというより、もっと単純に生理的な水準で僕自身がそれを必要としていたからだろう。配信は食事とか排泄というものに近い。社会的に課されたいっさいの役割から解放された、何者でもない素の自分を誰かに見てほしいという根源的欲求、いわゆる承認欲求と呼ばれているものと同じなのかもしれない。それを満たすためには、現実に人前に立って話すのが苦手な僕にはこれしか他に手段がなかったのである。芸術的なセンスのない僕にはインスタグラムとかティックトックとかを駆使して自分を華麗に演出することはできない。元来の非社交的な性格の持ち主で、他のひとと同じ空間と時間をともにすることにどうしよもない息苦しさを感じてしまう僕には、顔出ししないで話すという無責任さ、気楽さ、無骨さ、話者と聴者の間を分かつ曖昧な距離感がちょうどよかったのだろう。もちろんそれを狙ってやったわけではないけれど、こんなに長期に渡って続いているということは、きっとそういうことなのだろうと思う。

 もうひとつくらいもっともらしい理由を述べておくと、リスナーに想像の余地を残しておいたほうがいいと直観的に思ったからだ。フロイトが創始した古典的な精神分析では、分析家はソファに、患者はカウチ(寝椅子)に横たわり、互いに顔を見合わせることがない。これはいわゆる現在のカウンセリングとはまったく異なる。顔を見合わせない関係のほうが患者は無意識につながる自由な連想を獲得できるとフロイトは考えた。僕は高校生の頃からフロイトフロイトについて語る日本人の分析家に心酔していたから、こころについて語るなら顔や表情はむしろ要らないとつねづね思っていて、ニコニコ生放送で配信をはじめた当初から顔出しするつもりはなかった。僕は当初から人気者になりたかったわけではなかった。自分を実物以上に素晴らしく演出することや周囲をギャフンと言わせるために自己顕示することにはまったく関心がなくて、むしろ装飾のない素の自分を原型のまま見てほしかった。そのためにはシンプルに顔は邪魔だと思った。形は余計な解釈を生むだけである。動画も画像も要らない。声さえあれば十分だった。この考えはいまも僕の配信の基礎を支えている。ただ、ある女性リスナーから「福士蒼汰だと思って聴いています」と言われたとき、なんだかひとを騙しているようで申し訳ない気持ちになった。「福士蒼汰」を分かりやすく演じることで視聴者から金銭を巻き上げていく方向性もすこしだけ見えたが、まああとあと恨みを買うだけだからやめておこうと思って、「すみません」とだけ伝えて曖昧に濁しておいた。