AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

割れやすい理由

鼻水や咳は薬でどうにかなったが、昼夜逆転した生活リズムを元に戻すのは難しい。寝不足のまま仕事に突入する。頭はぼんやりするし気分は最悪だ。こんな自分で本当にいいのだろうか? と自分のいまの在り方そのものを疑うようになった。胸に鉛が詰まったような感じがする。こんなものを抱えて患者の命を預かるのは負担が大きすぎる。患者の命にも関わるような咄嗟の判断を必ず間違える。現に、精神科の外来で主治医としてずっと曖昧な態度をとっていたことで、患者が勤める企業の産業医との間に軋轢が生じた。診断書発行の意義から僕が捉え違えていたことで、先日院長から注意を受けたばかりだった。別のベテランの医師から精神科医産業医の関係、私傷病と労災の違いについてなど丁寧なレクチャーを受けた。とてもありがたいと思った反面、ほとんど内容が頭に残らず泣き出しそうになった。苦難を乗り越えて診療を続けたいという情熱は残っていなかった。結局この日の深夜に院長宛に3月で退職する意思のメールを送信した。自分がやりたいと言ったからやらせたのに無責任なのではないか、と非難されると思いなかなか言い出せず頭を抱えた。後日、秘書から確認の連絡があり、円満に退職の流れになった。「先生に振った患者の定着率がとても高かったのでとても話を熱心に聴いてくれたんですね。とても残念ですが頑張ってください」と非難されるどころか好評を頂いて肩透かしを食らった。 たびたびこういうことが僕の人生にはある。自分に厳しいのか、弱音を吐くと怒られるのではないかと心底不安になる。胸が詰まる。鉛みたいなもので。 この鉛が詰まった感覚が始まったのはいつからだろう? これに関連したもっとも古い記憶は、小学校低学年のときにサッカーボールを蹴って壁当てをしていたら、塀の上に置いてあった植木鉢(あるいは花瓶)にボールが当たってしまい、植木鉢が落下して割れるというものだ。この光景はたびたび夢に出てくるが、実際に現実に起きたことでもある。割れた植木鉢を眺めながら、僕は「母親に殺される」と瞬時に理解し背筋が凍りついた。本当に殺されると思った。母親はキレると言葉を選ばない。「〇〇したら首が飛ぶよ」と脅されたことがあった。小学生を相手にしてはとても凶暴な言葉を好んで使った。脅すことがいい教育だと、ヘラヘラ笑いながら受話器のコードをスパゲティみたいに指先に絡めて母親が友人と電話しているところを見てしまったことがある。 あのときの「殺される」という予感や、死罪も値するという罪悪感を超えるものをその後の人生で経験したことは一度もない。 それ以来、目の前で花瓶が割れるような事態があれば、たとえ自分の身に覚えがなくても反射的に心臓が止まりそうになる。謂れのない罪を着せられ、ひとり苦しむようになった。怒られるのではないか、あるいは殺されるのではないかと。 割れやすい植木鉢は母の心のメタファーでもある。僕が母親を壊してしまったのではないかと恐れた。幼いときの記憶だ。いまは割れやすいのは僕の方かもしれない。