AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

致命傷

通年で月1回の頻度で開催される精神分析系の勉強会があった。無事に参加できていれば僕は今年の3月に修了予定だったが、年の暮れにメンタルの不調に襲われて、主催者の先生にお詫びのメッセージをいれてドロップアウトさせてもらった。もうこの世界で長く経験を積んだ臨床心理士で分析家の先生である。先生から温かなメッセージをいただいて初めて気づいたのだが、いつも勉強会が行われる先生のオフィスにどうやらペンを置き忘れてしまったようだ。「このボールペンはこちらでお預かりしています。いつかお返しできることを信じて」という静かな励ましの文言が添えられていた。こちらが勉強したいと頼み込んでおいてこんな結末でなんだかとても申し訳ないな、という気持ちになった。先生ももうそんなに若くはない。残された貴重な時間が無駄になってしまったようで。 高校生の頃に小此木圭吾先生の本を読んで自分も精神科医になりたいと思った。当時、うつ状態のただなかにいた僕は自己治癒になりそうな本を残された力を振り絞って読んでいた。流行っていたスピリチュアルはあまり役に立たなかった。人生に起こる全ての困難は魂の成長に必要なカリキュラムであると説くスピリチュアリズムはいま思えば過剰適応を助長する危険な思想だった。そんな中でフロイトの『精神分析入門』や小此木圭吾先生の著作に出会った。初めて手に取ったのは『対象喪失』だったかな。小此木先生の後を追って僕も医学部に進学し、そしていろいろあって精神科医になった。 その後もいろいろあって(話すと長くなるので割愛する)、フリーターみたいなことをやってマイペースに生きている。自分は何科の医師なんだろうと自問自答しながら。いちおう医局に籍は残っているし日本精神神経学会にも所属しているので精神科医で間違いはないけど、アイデンティティとして、心の拠り所としていたかつての精神医学・精神分析への興味関心は薄らいでいる。どんな豪華なホテルにも何かしらクレームをふたつみっつ入れないと気が済まないタチなので冗談半分に聞き流していただきたいのだが、医局の精神分析系の勉強会に参加する先生なり、財団が主催する分析系のセミナーに登壇する先生なりが、なぜだかあまり好きになれなかった。すごくとっつきにくい印象で、古い本を読んでいると脳まで硬くなってしまうのかな、とすこし残念に思った。これまで自分のすぐ手元にあった心の支えだったはずの精神分析がすごく堅苦しくて他人のもののように感じられた。喩えるならサッカーは好きだがサッカー部は嫌いみたいに、なんかその周辺を取り巻く先生方が何となく閉鎖的で非社交的で好きになれなかった。また、精神分析家になるには、僕は心にあまりにも致命的な傷を負っていると自覚していた。分析家は患者の心を正確に映し出す鏡の機能を担うものだが、それを担うのは根本的に難しいと僕には思われた。まず自分のことをなんとかしろ、というやつである。僕がいままさに取り組むさまざまな困難についてはまた別の機会に述べる。そこに思い至ってから、これまで目指してきた目標が霧散し、やる気がみるみるなくなってきた。時期を同じくして恋人と破局した。傷はより深まった。いまはなんとなく惰性で働いている感じで、精神科医は食う手段と割り切っている。イキイキしていない。時間が過ぎるのをじっと耐えて待っている。極論かもしれないが、重量オーバーのエレベーターみたいに誰かが死なないとみんなが死ぬという局面なら、僕は誰よりも率先して死を志願したいと思う。まだその選択のほうが自分の理想に近い。 分析よりも表現のほうに惹かれている。