AO-MONOLOGUE-LITHIUM 2022

ひとことで言うと、無料で公開している短いエッセイです

フローからストックにした理由

いつまでもカニを冷凍庫に寝かせておくわけにはいかなかった。総重量1.6キロのカニは狭い空間で圧倒的な存在感を発揮している。隙間にできたわずかな余白には薄っぺらい板の形をした保冷剤しか入らない。そういうわけで自宅に母と弟を招いて一気に平らげた。スッキリと空になった冷凍庫を見て、気持ちは晴れ晴れとした。そこにはカニの残像さえなかった。あまりの何もなさに呆気に取られた僕は来年もふるさと納税カニを頼もうと心に決めた。 カニの話はさておき、2022年に入ってネットにおける自己表現の形式をフロー型からストック型に僕は大きくシフトチェンジした。フロー型というのは配信やライブの演奏みたいにその場のノリや盛り上がりを一緒に楽しむ表現のこと、ストック型というのは作品として残していく表現のことである。いずれもキッパリ分かれるものではない。要するに、フローとしてなんとなく垂れ流しにして消してきた配信に一手間加えて、ちゃんとアーカイブというか作品として残していこう、という試みだ。きっかけはこのブログを始めたことだった。なんとなくノリで始め、今では15分間の仕事の隙間時間があれば白衣のポケットに忍ばせておいたスマホでコリコリ書いている。パソコンで長年書いてきたのでまだ慣れていない。でも、それなりにちゃんと自分の念のようなものが文章には刻印されている。しかも僕が寝ている間にも読者に絶え間なく念を送り続けてくれる。これは楽だなと思った。毎回「なんで医者になろうと思ったんですか?」とか「え? 先生って弟いるんですか?」という初歩的な質問にフロー型の配信だといちいち答えないと不親切なのに比べて、文章にはその説明の作業がないのでありがたい。この間の話の続き、いわば本題からいきなり切り出すことができるのだ。詳しくは過去の記事をご覧ください、みたいに文章の末尾にリンクだけ貼っておけば済む。かなりの時間の節約になる。また、資産としての価値が生まれるのではないかという密かな打算も多少ある。アーティストでもない僕の手がけた文章や動画なんて市場的な価値はゼロに等しいが、それが積み上がっていけばなんらかの固有の価値あるものになるかもしれない。例えば今日の動画を明日見たとしてもなんにもならないが、今日の動画を3年後見たらどうだろう? ああ、2022年の初頭にはまだこんな青臭いことを言っていたんだ、みたいに時間をかければ自然発酵して新しい商品的価値が宿ることもある。青臭さを面白がって3年後のファンが喜ぶかもしれない(もちろんほとんどの残骸はそのまま発酵というか腐敗して3年後もゴミになるとは思うが、初期投資0円でできる投資だと思えば悪くない)。過去に動画化しておけばよかったと心から悔やまれる配信がいくつかある。2011年に最初のコミュニティを解散した時、あのとき僕の周りには熱心なリスナーは2、3人しかいなかったが、ちゃんと動画にして残しておけば今ならもう少し多くの人に悲しんでもらえたかもしれない。物的証拠としての動画さえあれば、解散事件みたいに歴史的な出来事として後世のリスナーに伝えられていたのではないだろうか? そういうストック的な観点が僕には決定的に欠けていた。どうせ僕なんて芸能人やタレントじゃあるまいし誰も見ないだろうと。慎ましさというかもはや卑屈さのせいで、結構もったいない時間の使い方をしてきたんじゃないかと悔まれる。高校生の頃にやってたアメーバの初代ブログにしたってちゃんと残していれば今ごろ年代物だったのに。 昨年末に新しく始めたこのブログのストック感に味をしめて、年明けに僕はTikTokをなんの前触れもなく思いつきではじめてみた。おじさんがいきなり若者文化の中枢に切り込んだ、みたいに場違いな感じは否めなかったが、激しい拒絶を受けることはなかった。僕は自意識過剰だったみたいだ。むしろ初投稿なので運営から優遇されたみたいで、初回動画の再生数はそれなりに増えた。全然知らないひとから挨拶がわりにいいねを貰った。どういう理由なのかわからないが外国人が何人かフォローしてくれた。とても間口の広い表現形態なのだとよくわかった。作業自体はスマホでサクサクできるのでフロー型だが、それが動画として徐々にストックしていくという仕組みである。カニみたいに残像まで消えることはない。僕の性格に合っている気がした。今後はストック先としてYouTubeも併用したい。TikTokを始めてしばらくしてもリスナーから全く反応がないので、たぶんあまり見られていないのだろうと察する。閲覧性の悪さだろうか。硬派なひとのためにも、YouTubeでもう少し食べ応えのあるアーカイブを残したい。